当時、ファンション・フォトフラファーの間では暗黙の掟と言うのがあった。メジャー4雑誌。エル・ジャポン vsマリー・クレールジャポン、流行通信vsハイ・ファッション。エル・ジャポンをやっているフォトフラファーはマリー・クレールをやってはいけない。流行通信をやっていればハイ・ファッションはできない。掟破りは二度と前の雑誌には戻れないと言う掟だ。欧米では移籍には多額の契約金が支払われる。ピーター・リンドバーグがハーパース・バザーに移籍した時の契約金は150万ドルだったと言われる。その10分の1でも払ってくれたら喜んで一誌と契約するが日本ではあり得ない。エル・ジャポンはKENZOコネクションでデビューして以来レギュラーでやって以来レギュラーでやっていたのでマリー・クレールできなかった。
 マリー・クレールファッション・ディレクターの原由美子さんから連絡があった。エル・ジャポンがアンアンから独立した1982年からエル・ジャポンのファッション・ディレクターをしていた原さんはその1年後にてマリー・クレールに移籍したのだ。エル・ジャポンは編集長が変わり、原さんのアシスタントをしていた大貫由紀子さんと稲田京子さん、流行通信にいた阿部みちるさんをファッション・エディターとし起用した。エルの編集長に「原さんから仕事の電話あったんですけど、やってもいいですかね?」と聞いたら、「いいよ。」と言われた。それを聞いていた編集者が「五味さんちょっと」と言って僕を廊下に連れ出した。「平沢さん(編集長)はいいと言っているけどやったらエル・ジャポンだけじゃなくてマガジンハウス出入り禁止になるわよ!」、「えっ!」原さんは編集長ではなく、アンアン、エル・ジャポン、オリーブなどを仕切っている局長ともめてエルを飛び出したと言う話だ。たまたま彼女がいたからいいようなものの編集長の「いいよ」と言う言葉につられてやっていたら僕のファッションフォトグラファー人生はそこで終わっていた。
 それから1年以上経っただろうか、マリー・クレールから松尾晋平さんと言うシェフの料理のページを連載するのでやってくれないか?と言う電話があった。兼子さんと言うファッション・エディターでスチルライフのページを担当していた。当時、料理の写真といえば佐伯義勝さんと言う料理写真の巨匠がいた。料理写真のパイオニアで斜め40度から完璧と言っていいほどのライティングで料理だけでなく器からお箸まで美しい写真を撮って、料理写真のスタイルを作った写真家だ。その頃、変えたい写真が二つあってその一つが料理写真だった。「やりたいのでですがマガジンハウスの許可を取らなければならないので」と、電話を切った。許可が降りてりマリー・クレールの連載が始まった。毎月、エル・ジャポン 、マリー・クレールジャポン、流行通信、には写真が掲載されるがようになったがハイ・ファッションは流行通信の関係上出来ない。実際にハイ・ファッションやって流行通信やって追放された人を知っている。しかしそのころハイ・ファッション同じ出版社の『装苑』から電話があり、メジャーなファッション誌を出している出版社(マガジンハウス、流行通信、中央公論社、そして文化出版)の月間グランドスラムを達成する事ができた。
 マリー・クレールのアートディレクターはその数年後デジタローグと言う電子書籍の出版社を作り『YELLOWS』を送り出した江並直美だった。

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