HIRO、
本名は若林康弘、1930年上海で生まれる。両親は日本人。1954に渡米する。ニューヨークのSchool of Modern Photographyに入学したが満足できずレスター・ブックバインダーのアシスタントを経て1956年にリチャード・アベドンのアシスタントになる。当時、BAZAARのアートディレクターだったアレキセイ・ブロドウィッチ(1898年-1971年)がアヴェドの事務所で現像所から届いた写真を見て「ディック(アヴェドンの愛称)はスタイルを変えたのか?」とHIROに聞いたところ「それは僕が撮ったんです。」と答えた。アヴェドンが撮ったディオールの特集で使った靴の写真だった。ブロドウィッチは翌月、アヴェドンの助手をやめさせてBAZAARのスティルライフを彼に撮らせた。HIROのデビューだった。ブロドウィッチは、HIROの母校で若い写真家、グラフィックデザイナーなどを集めデザイン教室を開いていた。アヴェドン、ダイアンアーバス、マーヴィン・イスラエルはその教室の出身。
 1958年、1933年から25年の間、編集長を務めたカーメル・スノー(1887年-1961年)が辞任する。それに伴いアレキセイ・ブロドウィッチも辞任。スノーの後任の編集長に姪のナンシー・ホワイト、アートディレクターにブロドウィッチのデザイン学校の卒業生でEsquire誌で仕事をしていたヘンリー・ウルフ(1925年-2005年)が就任する。ヘンリー・ウルフはブロドウィッチのスタイルを世襲するもの1961年にスノーの右腕と言われたファッションエディターのダイアナ・ヴリーランドがウルフとのカメラマンの起用など編集上の意見の食い違いからがVOGUEに編集長として移籍する。彼女はアヴェドンを誘ったがアヴェドンには1955年にBAZAAR誌と交わした10年契約があったためアヴェドンは1965年にVOGUEに移籍。アーヴィング・ペンと共にVOGUEの黄金期を作ってゆく。ウルフは解任されBAZAARの第一期黄金時代は終了する。1992年にファビアン・バロン(Fabien Baron 1952~)がアートディデクターに就任するまでその栄光を取り戻す事ができなかった。ピーター・リンドバーグが専属契約をした。そん金額は150万ドルだったと言われている。1950年代にアベドンがBAZAARの契約金は10万ドルという言われているのているので彼の契約金がいかにすごかったという事がわかる。
 ウルフの後任としてマーヴィン・イスラエル(1924年-1984年)が就任する。パーソンズ・デザイン・スクールで教鞭を執ってた彼はブロドウィッチのデザイン教室出身でもあった。しかし、イスラエルは就任わずか1年半で突然解任される。その後任としてイスラエルの助手をしていた副アートディレクターのラッシュ・アンセルとベア・ヘイトラーと言う二人の女性がアートディレクターとして就任する。1965年、VOGUEに移籍する。その契約料は10万ドルだったと言われている。HIROはBAZAARのメインフォトグラファーとなりこの二人の元で誰もが認めるファッションフォトグラファー、『Photographer’s Photograper』、フォトグラファーが愛するフォトグラファーになっていく。(BAZAAR 1968年)
ヘンリー・ウルフがアートディレクター時代に起用したのがソール・ライター。ダイアナ・ブリーランドと意見が合わないのも理解できる。
ダイアナ・ブリーランド『攻撃するエレガンス』
『プラダを着る女』とオードリーヘップバーンの『パリの恋人』出てくる編集長は彼女をモデルにしたもの

ギイ・ブルダンを起用したのもこの二人の女性アートディレクターです。1968年BAZAARの表紙
『ある愛の歌』でデビューしてサム・ペキンパーの『ゲッタウェイ』でスティーヴ・マックイーンで今共演して結婚したアリ・マックグローはダイアナ・ヴリーランドのアシスタントでアヴェドンの日本ロケに同行したそうです。

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