リンドバーグには事件簿ではないがZIGENファイルと言うものがある。そのファイルは3部構成になっていて第一部はリンドバーグのデビュー時代。第2部は1982年~85年のZIGENのアシスタントしていた時代、第3部は彼がフリーリなった後のリンドバーグの作品ををファイルしたものだ。
ZIGENがパリに来たのは1982年なのでそれ以前、1977年〜1983年までのファイルは誰が揃えたかはおわかりだと思う。1977年にパリに着いた時,最初に買ったものはヴォーグ(仏)、マリークレール、ELLE、だった。1983年に帰国するまで買っていた。ヴォーグとマリークレールは月刊誌だがELLEは週刊誌なのでその数は数百冊に及んだ。帰国の際にZIGENにはマリークレール、ELLEはトスカーニのアシスタントしていたヨシこと倉田君にあげた。リンドバーグもとトスカーニ、奥さんはモデルのクリスティ(写真右下)もその雑誌の持ち主がアシスタントになる予定だったがある事情があって彼らを紹介したのだ。
 ピーター・リンドバーグ(Peter Lindbergh)、本名Peter Brodbeck。1944年、西ドイツのリッサ(現ポーランド領)で生まれ。美術学校で絵画を学び27歳で写真を始める。(wiki)、最初の奥さんはその学校の同級生。1978年に移り、マリークレールでデビューする。当時、ELLEのメインカメラマンでベネットンの広告を撮っているトスカーニ(伊)と、ヴォーグで活躍していたアーサー・エルゴートのエイジェントをしていたバーバラ・シュネガー(独)がドイツのスターン誌(Stern)に掲載されたKENZOの広告を見る。彼女はKENZOのプレスをしていてKENZO社に問い合わせるがその広告は本社で出したものではなくドイツのライセンス会社が独自に出したものだと言う事だった。彼女がスターン誌に連絡すると「あなたに会いにパリに行きましたよ」と言うことだった。リンドバーグは元KENZOのプレスで、トスカーニ、アーサー・エルゴートのエイジェンをしている事を知ってパリに向かったのだ。その数日後にリンドバーグから連絡があり同じドイツ人でマリークレールのアートディレクターのフリードマン・ハス紹介してデビューする事になる。ヴォーグではニュートン、ギィ・ブルダン、アーサー・エルゴートにサックマン。ELLEはトスカーニ、ジル・ベルシモン。マリークレールはハンス・フォイラー、サシャ、そしてピーター・リンドバーグと言う時代の始まりだった。
 写真は1978年のマリークレール。リンドバーグはスーパーモデルメーカーと言われて新人のモデルしか使わなかった。このシリーズの2ページめのモデルだけが当時のスーパーモデルのカナダ人のサキ。1982年にアシスタンになったミッシェル・ベルトンの奥さんでリンドバーグとベルトンはお友達。トスカーニのアシスタントができなかったのは奥さんがクリスティーと言う当時のスーパーモデルでベルトンの家で夫婦で一緒に食事をするほどの大の仲良し。
3ページの隅でモデルの手にキスしているのはヘアーのジーン・マルク・マニアティス、パリ時代であった親友のマサトの師匠。隣の日本人はリンドーバークのアシスタントの白松さん。この人の次のアシスタントが最悪で当時マリークレールでスタイリストをしていた山崎マコさん「リンドバーグのアシスタントやらないか?」と誘われたのです。
 いつもタラレバですがさんから連絡があってもし、ベルトンのところをやめてどちらかに行ったら今の自分はなかったと思います。1983年、人生で最高の感動する出来事が起こります。続きは本編で、、、。

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